根城の概要
根城は青森県八戸市に所在する、南部氏一族・八戸氏の居城で、馬淵川右岸の河岸段丘に築かれている。
建武元年(1334)、陸奥守北畠顕家の命を受けた南部師行が築城したというが、それ以前に八戸の領主であった工藤氏の城館があったらしい。
八戸氏は天正18年に小田原に参陣できなかったために宗家・三戸南部氏の家臣となり、寛永四年(1627)に遠野へ移転した。
現在城址は史跡根城の広場として整備され、本丸内には木柵や主殿、工房等の建物が当時の工法で復元されている。
なお、史跡広場として整備されているのは国道104号線の北側部分(本丸、中館、東禅寺館、無名の郭)部分のみで、南側の岡前館や沢里館は住宅地や畑となっている。
訪問記
現在では「根城」(ねじょう)という呼び方が定着しているが、かつては八戸城と呼ばれていたそうだ。
現在、城址は史跡根城の広場として整備されているがかつてはただの原っぱだっった。
当時高校生だった私は登下校の際にバスの中から根城の景色を眺めるのが好きだった。
中館には一本の木が生えていて、いつもそこに犬がつながれていたのを覚えている。
捨てられているわけではなく、おそらく近所の飼い主が朝つなぎ、夜になると連れ戻しに来たのだろう。
すねのあたりまで伸びた緑の草が風にそよぎ、ときたま家族連れが弁当を広げたりボール遊びをする、近所の人の憩いの場という感じだった。
小学校や中学校の社会科見学で根城を訪れたこともあった。
父に連れられて根城を訪れたこともあった。
いずれの時も本丸大銀杏の大きさが強く印象に残ったものだ。
その後、本丸で建物の復元工事が始まり、中館もきれいな広場として整備された。
昔の方が良かった・・・とつくづく思うことがあるが、仕方ないだろう。
八戸市博物館から城門(旧八戸城城門。その前は根城の城門だったとの言い伝えがあり、矢の刺さった跡が確認されたという話がある)をくぐり、東善寺館へ。
城門はかつては本丸近くの国道104号線沿いに、半ば朽ちた状態で建っていた。
城門の左右には東構と東善寺館を区切る堀があり、この堀は国道を越えた三番堀へとつながっている。
東善寺館郭内は墓地となっており、北側には帯郭と虎口跡が残っている。
東善寺館の隣には無名の館がある。
この館は昔は中館と呼ばれていた。
つまり、東善寺館と本丸の間の郭は中館と認識されていたのだ。
その先が中館で、八戸氏の一族にして重臣の中館氏の居館だった。
さらに先に進むと根城の中で沢里館に次いで標高の高い本丸跡になる。
深いV字の堀には木橋が架けられている。
この部分は破城の際に重点的に破壊された部分だ。
かつては堀底をたどって本丸に出入りしていたものだ。
内部には工房や主殿等が当時の工法そのままに復元されている。
本丸から堀をたどって北側へ出る。
現在住宅地となっている一帯はかつては下町と呼ばれた根城の城下町だ。
かつてはした町の北側にも堀が東西に走っていたらしい。
本丸の西側には大きな土塁が残っている。
この土塁越しには外から内部を見通しにくい構造となっている。
逆に本丸内からの見通しは悪くない。
この土塁も階上町の城館のように弓射の便を考慮して作られているのだろうか?
本丸の南側・国道104号線沿いの堀は湿地状となっている。
昔は常に水がたまっていたものだ。
この堀だけでなく、根城は水の手が豊富だったようだ。
国道を越えた南側は岡前館と沢里館になっている。
三番堀をたどって岡前館の外周を散策するとその広さに驚くとともに平坦な地形に不安を感じる。
南方は地続きで凹凸の少ない緩やかな地形となっている。
地形的に岡前館は根城の弱点部分と考えられる。
そのため、南方を守るように沢里館が突出して設けられたのだろう。
おそらく、沢里館が設けられたのは比較的新しい時代では?と思うのだが・・・。
沢里館には糠部三十三観音の一つ・根城隅の観音がまつられている。
沢里館の周囲の堀跡はそのまま道路となっているようで、南側には宅地で削られているが堀跡が残っている。
訪れることも少なくなった根城だが、平成18年には日本城郭協会選定の日本の100名城の一つに選ばれた。
本丸内復元主殿。
本丸水堀(平成三年頃)。
東善寺館虎口。
東善寺館空堀。
本丸空堀、土塁。
本丸土塁。
中館。